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ちょっとコーヒーブレイク(明け方)のヒトリゴト 「終わりに変えて」 [日記]

あぁ・・・なんとかノルマ達成!

長いことブログの文章なんか書いてなかったので、自分でも書けるのかどうか自信がなかったのですが、どうにかカタチになりました。
文章がへったくそになっていて苦労しました。
どの記事もまとまってねーし orz

広島のあの旅から帰ってきて、私の中に残ったのは何故か「寂しさ」だったんです。
なんでだろう・・・。

確かにしんどい旅でした。
もともと車の運転は好きなほうではないので、9時間の運転は自分でも限界を超えてると思ったんですけど、いざ行って見てステージはホントに気持ちがいいくらい楽しかった。
帰宅してから、めったにやらない他人のブログにコメントするなんてこともやりました。
なんか吐き出さなきゃ居られなかった。

それでも、まだ私の中になにかどろどろと固まっていない違和感があって、いつまでたっても「しっくりと落ちて」こないんです。
ホント・・・なんでだろう?
自分は、どちらかというと文章を書くことで自分自身を見つめなおすことができるので、3月から大きく動き出した自分の中の感情をコンサートのレポートを書くという形でひとつづつさらってみようと思いました。

書きながら、たくさんのブログや記事を読み、何度もDVDやアルバムを聴きなおして、1曲づつ思い返していくとどうでしょう。あぁ、なんてたくさん取り違いをしていたことでしょうか。
最たるものは、古澤さんの音はいつもなにかにそっと寄り添っていたということです。
それは、競演者の音であったり、聴いている私達であったり、私達が生きているこの世界であったり。
だからあんなにも優しく、美しく、繊細で儚い。

コンサートに足を運ぶたび、何かひどく大切なものを少しずつ分けてもらっていたんだ。
聴き始めた最初の頃、音楽も文学と同じようにいいと思えるものは素直にいい。それで十分だと思っていました。
無理してクラシックに手を出して難しく考え込んでしまうくらいなら、あえてない方がいいんじゃないだろうか。
そう、学者の話に翻弄されて村上春樹に変に苦手意識をもってしまったように、古澤さんの音を素直に聴けなくなることが少し怖かった。

ですが、何度も何度も書きましたが、私には音楽の素養があまりにもなさすぎる。
小さな私の音の世界はとうとう古澤さんの音だけで一杯になって溢れてしまったのかもしれません。
狭すぎて苦しいって。
少し器をひろげてやらないと、苦しくなる一方かもしれない。
そう考えてクラシックの演奏会にも足を運ぶ気になったのも、記事を書いたのがきっかけです。

今でもふと思い出すのは寂しさであることは変わりないのですが、この寂しさとは折り合いがついてきました。
私は一生あの旅をわすれることはないでしょうし、何度も反芻しながら生きていくんだろうと思います。
その時にともなう痛みがいつか、コメントにも寄せていただいた「愛しさ(かなしさ)」に変わっていけばいいなぁ。

約一月かけて「古澤巌」について記事を書いてきましたが、このブログではここで一旦終了としたいと思います。
コンサートは後半のほうがたくさん行くんですけどねw
もし何か心動かされるものがあったら、その時に!
再会を約束して。
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